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「手を差し伸べる信仰」

「・・・このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。j          マタイ18章5節

 先週、善隣幼稚園の同窓会が行われました。そこで中学生の卒園児達も祈りの手を合わせました。信仰による教えは残り続ける事が改めて分かりました。

さて教会の約束にも子どもを御旨にそうように教えるとあります。社会でも次世代を担う子ども達に期待しています。

 しかし実際は本心からではない時があります。児童の生活困窮や大人の欲望の為に犠牲になり、さらに世界的視野で奴隷制や人身売買が横行します。

教会でも子どもに無関心で軽視していないか吟味する事が必要です。その傾向は今も昔も変わりません。

そこで私たちの主は彼らを特別な配慮で対応するようにと教えています。

義とされ御国の一員である私たちが今、彼らに本心で手を差し伸べるべきです。具体的に園教師の手当や日曜学校関係者の支援も充実させる事もできます。

それらは後回しせず今できる事は何かを考え、実際に取り組みましょう

2017年8月5日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「永遠の主のもの」

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」        (マタイ6章13節)

 主の祈りの最後の一文は、祈りというよりも信仰告白と言った方が良いのかもしれません。

この告白は今まで祈って来た方「天の父なる神」がどのような方であるかを証ししているのです。

それは国、力、栄光、この地上で権威あるもの、誉あるもの、栄えあるものと言われる一切は神様のものであるとの告白です。

元来、全てを造られたのがこの主なる神様であることを認めるならば、当たり前のこととも言える告白です。

しかし現実には人間はあたかも全てを自分の力や当然の権利のように思って感謝することの少ないものであり、本来の造り主に心を向けることが少ないものなのです。

この告白を通して全てが主から生まれ、主に栄光を帰するためにあることを認めるべきなのです。

 そして最後に「アーメン」で祈りをしめくくります。

アーメンはヘブル語の「真実です」や「同意します」などの意味で共同体としての告白です。

誰かが祈った時、その内容をしっかりと受け取り心からの信仰の同意をもってアーメンと言いましょう。

賛美の終わりには作者の信仰告白に心から同意してアーメンと言いましょう。

主の祈りの内容が私たちの日々の歩みの中で「アーメン|となるように。

 

主の祈り

天にいます私たちの父よ

御名があがめられますように

御国が来ますように

みこころが天に行われるように

地でも行われますように

私たちの日毎の糧を今日もお与えください

私たちが罪のある人を赦しましたように

私たちの罪もお赦しください

私たちを試みにあわせないで

悪からお救いください

国と力と栄とはとこしえにあなたのものだからです

ア-メン

2017年7月18日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

ダビデの信仰!

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」 (詩篇51:10)

 これはダビデがウリヤの妻バテシェバを奪い自分の妻にした時に預言者、ナタンがその罪を責めた時のことです。

一国の王であり、その国家の最高の権力者であったダビデは預言者を処罰する事もできたのですが、ダビデは自分の罪を認めナタンを遣わした神のみ前に全くひざまずき、自分の罪の赦しを願い祈っています。

ここにダビデの信仰の深さ、すばらしさが現われています。

人間の本当の強さは、人を殺す事ではなく、自分の罪を認め全く神のみ前にひざまずくことにあるのです。

さらにダビデは自分の弱さを知って、何度も同じ罪を繰り返す自分を認めて「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と願っています。

 最早、人間の力ではなく聖書の力により頼んでいます。ここにダビデの信仰の本当の弱さと強さがあるのです。 

私たちもダピデの信仰の深さと素晴しさをいつまでも持ちたいものです。

2017年7月10日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「試みを受けることなく」

私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6章13節)

 聖書で「試み」と訳されている言葉は「誘惑」という意味にも取れる言葉です。

イエス様が40日間荒野で過ごした後にサタンの誘惑を受けたことが聖彗にありますが、それと同じ言葉が今日の「試み」です。神様の御心から離そうとサタンが働きかけることがあります。

そのような時に信仰を持ってサタンを退けられるならば幸いですが、時にはその誘惑に屈して神様の御心を悲しませてしまうこともあるでしょう

 主の祈りの最後の祈りは試みからの守りの祈りです。それは私たちは弱い者であることを自覚し、認め、主に頼ることが一義的な意味です。

さらにサタンが働きかけて来た時、ひたすら主に頼ってサタンを退けることが出来るようにとの祈りでもあります。

イエス様が試みを受けた時にサタンの誘惑をことごとく退けることが出来たのは、神様の御言葉によってサタンの言葉を受け付けなかったからでした。

同様に私たちも試みを受ける時に勝利し主の卸心を選ぶために必要なのが神の御言葉なのです。

その意味で日々のディボーションや、御言葉の蓄積がいかに重要であるかを知らなければならないのです。

礼拝を守ることや 日々の祈り会に集うこと、教会の諸行事にも積極的に参加し御言葉の学びを重ね、御言葉を蓄えるならば、いざいう時にサタンに勝利できるのです。

 

 

 

 

 

 

2017年7月2日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

赦されているから赦す

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節)

 日本語には「ゆるす」という漢字が2種類あります。一つは「許す」でもう一つが「赦す」です。

聖書が記す神様の教えは「赦す」ことを命じておられ、それこそが信仰の土台であり、原点であることを示すのです。

主の祈りの5番目の祈りは「赦し」についての祈りであり、人間関係において最も重要な姿勢がここにあります。誰かを赦せないという気持ちを持ちながらイエス様の信仰を保つことは難しいことです。

なぜならばイエス様の教えの大前提として神様の愛と赦しがあるからです。イエス様によって救われたクリスチャンは何よりも赦す人でなければならないのです。

 聖書では「負いめ」と訳されている言葉は端的に言うと「罪」のことを現わします。

この祈りはそのまま読むとあたかも神様から罪を赦されることは、私たちが誰からの罪を赦した条件のように読めます。

しかし神様の救いや赦しは、私たちが何かをしたから与えられたものではなく恵みです。

むしろこの祈りは弟子たちに与えられた模範的な祈りであることを考えるならば、すでに赦されているからこそ、誰かを赦すことが出来るものになる、そんな告白なのです。

2017年6月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91