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主はモーセに仰せられた。
「主はモーセに仰せられた。『あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 (出エジプト記33章17節)
イスラエルの民はモーセ不在の時致命的とも言える罪を犯してしまいました。それは金の子牛を作り、それを神であると告白し、偶像礼拝と遊興にふけったことです。
神様から十戒の板を受け取り帰って来たモーセは怒りのあまりその板を地面にたたきつけて割ってしまったのです。
モーセは自分が命の書から名を消し去ってもらっても構わないから民を赦して欲しいと願うのです。これは旧約聖書の執り成しの祈りの中でも最も偉大な自己犠牲の祈りです。
そして33章には民への厳しいさばきを宣言された神様とモーセの会話が続くのです。
モーセの必死の執り成しは続きます。モーセは神様と顔と顔を合わせるように祈ったと記されています。神様との距離感の近さがその信仰のあらわれです。
神様自身がモーセについて「わたしの心にかなう」と言って下さっていることは何と大きな光栄でしょう。それは同時に「主が共にいる」という約束につながっています。
私たちをも選び共にいて下さる主に心から感謝致しましょう。
「文書伝道デーに協力しよう」
「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」 (ピリピ2章16節)
昨今は電子文書の広がりや、通信販売の充実から出版業界が厳しいと言われています。大手の一般書店も軒並み閉店するような時代です。
そのような中にあって沖縄にはOBCのキリスト教書店といのちのことば社のライフセンターの2店舗が現在も営業出来ていることは神様の憐れみと奇蹟的な出来事なのです。
しかし普通に考えても中々本が売れない時代に、キリスト教関連の本だけを扱っているということは当然経営も運営も厳しい中にあります。まず私たちが協力的にこれらの書店を支援し、多くの書籍やグッズを購入しましょう。
なぜならばその目的はどこまでも伝道にあるからなのです。那覇バプテスト教会では年に2回文書伝道デーを設けて、キリスト教書籍やグッズをエントランスで販売しています。
それはイエス様の福音がありとあらゆる手段を通して、一人でも多くの方々に伝えられるためであり、私たちの言葉では伝えきれない主のすばらしさを救われてほしいその人にお伝えするためだからです。文書伝道デーに協力しましょう。
「モーセの祈り一祈る者、支える者-」
「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。」 (出エジプト記17章11,12揃)
イスラエルがアマレク人と戦いをした時の出来事です。実際に先頭に立って戦ったのはヨシュアでしたが、背後にあってモーセも戦っていたということが分かります。
それは執り成の祈りの戦いでした。丘の頂から戦況を見た時、モーセが手を上げて祈っている時はイスラエルが優勢となり、手を降ろしていると劣勢になったというのです。
ここまで明確に祈りの効果を見ることは中々ないことかもしれません。
しかしこれを見たモーセは何としても手を上げ続けることとするのです。これは一人ではなかなか難しいことでした。
モーセにはアロンとフルというサポーターが与えられました。モーセのために座る石を用意しまた両手をわきから支えたのです。
ついにモーセはイスラエルが勝利するまで祈りの手を上げ続けました。
同じように私たちも自らが祈る時、共に祈り支えてくれる信仰の友を得たいものです。それこそが信仰の勝利につながります。
「ヨセフの祈りー主が共におられるー」
「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼と共におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39章23節)
ヨセフの人生の成功の秘訣は何でしょうか。それはいつでもどこにいても「主が共にいる」という生き方にありました。
悲劇的ともいえる人生の中に彼は「主にあって幸運な者」との異名をもらっています。普
通に考えれば失望と怨み、嘆きばかりで綴られるような困難な人生のただ中にあって、彼の口から出ている言葉は神様への祈りだったのです。
彼はどこにいても神様に祈り、そこで共におられる神様を体験し続けます。鴫されても、ひどい目にあわされても、誤解されても、神様と共にいることを止めない生き方がヨセフにありました。
そしてそれこそが私たちの人生の成功と祝福の秘訣でもあるのです。
主が共にいて下さる人生は祈りの人生です。主がここにいて聞いて下さるという確信。主が祈りに答えて下さるという希望。主のなさることは最善であるという信頼。
そこに立つ信仰者の祈りはヨセフ同様の何をしても成功し、主の祝福を見ることができる「主にある幸運な者」となる祈りなのです。
「真の神が気にかかるもの」
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。・・・」 (詩篇8篇4節)
社会を思うままに考える時の為政者も未知の事柄が数多くあります。上記もそれを教えています。
即ちダビデ王が、神は私たちを気にかけて下さると驚きをこめてほめたたえています。
確かに心静めて良く思い巡らすと、暮らしの何気ない事や見過ごしてしまう事に神の恵み、その感動を得られます。
それが信仰の効果です。自分自身は生かされている存在で、何の為に生きるのかという答えは聖書から得られます。
それを幼子のように素直に信じるのみです。これは現代の為政者達にも必要な事です。
自己保身ではなく自我も捨て神と人々を愛する事に心を傾けると、神に喜ばれる対応ができます。
やはり権力者を含めて全ての人は神の言葉から悟り得て、ますます謙虚になり聖書が教えるまことの神を信頼し従うべきです。
そのためにキリスト者・教会の社会的な証しは重要です。
乱世に生きる私たち。これからも信仰の目標である主イエスにますます倣い、証し続けましょう。