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「真の神が気にかかるもの」

「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。・・・」        (詩篇8篇4節)

 社会を思うままに考える時の為政者も未知の事柄が数多くあります。上記もそれを教えています。

即ちダビデ王が、神は私たちを気にかけて下さると驚きをこめてほめたたえています。

 確かに心静めて良く思い巡らすと、暮らしの何気ない事や見過ごしてしまう事に神の恵み、その感動を得られます。

それが信仰の効果です。自分自身は生かされている存在で、何の為に生きるのかという答えは聖書から得られます。

それを幼子のように素直に信じるのみです。これは現代の為政者達にも必要な事です。

自己保身ではなく自我も捨て神と人々を愛する事に心を傾けると、神に喜ばれる対応ができます。

やはり権力者を含めて全ての人は神の言葉から悟り得て、ますます謙虚になり聖書が教えるまことの神を信頼し従うべきです。

そのためにキリスト者・教会の社会的な証しは重要です。

 乱世に生きる私たち。これからも信仰の目標である主イエスにますます倣い、証し続けましょう。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「ヤコブの祈り一恐れる時に」

ヤコブはひとりだけあとに残った。するとある人が夜明けまで彼と格闘した。」(創世記32章24節)

 私たちの心配ごとの9割は杞憂に終わると言います。私たちは多くのことを心配して生きていますが、そう思うと悩んでいる時間は実に無駄な時と思えるかもしれません。

しかし悩みを神様に打ち明け、豊かな祈りの時間に変えることが出来るならば、悩みも神様にあって祝福になるのです。

 ヤコブは兄に対する深い恐れの故に一人思い煩っていました。これは彼自身がかつて兄に対してした卑劣な糧し事に端を発しているので誰にも相談できず、一人もんもんとするのです。

しかしその兄との再会の時が近づいてきました。彼はいよいよ翌日兄エサウと会うという日にある場所で一人留まることにしました。

そしてある人と夜中から夜明けまで格闘した、とあるのです。これは実際の格闘と言うよりも戦うような祈りの時間、と言われています。

この人が神の使いであることは後で分かりますが、ヤコブはこの人を自分を祝福してくれるまで離さないとしがみついたのです。

ヤコブは色々と問題の多い人物でしたが、神様だけが祝福して下さる方ということをよく知っていました。私たちもヤコブのように神様と格闘し、しがみつき、祝福を勝ち取る祈り手となりたいものです。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「高齢の方々に感謝を」

「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはしらが。」(蔵言20章29節)

 那覇バプテスト教会には80歳以上のかたがたが75名ぐらいおります。これは恐らく日本でもなかなかない教会ではないでしょうか。

聖書においては高齢の方々を敬い、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」(レビ記19章32節)とも記されています。

私たちは人生の先輩であり、信仰の先達の姿にならい、心からの敬意を表して感謝を現すものでありたいと思います。

 数年前「老人力」という言葉が紹介されていました。私たちはともすると年を取ることを悪いこと、衰えることと考えマイナスイメージを持ってしまいます。

 しかし老人力とは、高齢者はその年に相応しい力を身につけていることであり積極的に老いを生きることなのです。身体のどこかが以前と違っているならば、老人力がついたと表現します。前向きにその年を自分らしく生きて行きます。

70代には70代の80代には80代の90代には90代の積極的な生き様があります。そしてそれはまさしく聖書が記す信仰の世界にその真髄があるのです。

アブラハム、モーセ、ヨシュア、カレブなど信仰によって豊かに生きた高齢者のように那覇バプテスト教会のお一人お一人が豊かに歩まれますように。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「しもべの祈り一御心を求めてー」

「こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。」(創世記24章15節)

 信仰の父アブラハムは最大の試練ともいえる息子イサクを捧げなさいとの主のご命令を乗り越え、円熟した信仰に達しています。

しかしどのような段階の信仰者であれ、人生において悩みや問題がないと言うことはありえないことです。齢140になるアブラハムの唯一の悩みは息子イサクに相応しい連れあいが与えられていなかったことでした。

それはアブラハムに与えられた子孫の約束の実現のためにも不可欠であり、その頃妻サラが死んだことによる寂しさもあり、急を要する願いになっていました。

アブラハムは信頼するしもべに依頼し、イサクの嫁を連れてくるように命じます。

異教の神々を信じているカナンの地ではなく自身の故郷から、真の神を信じる女性をという命令です。これは膨大な時間を要する可能性もある仕事でした。

 しもべはナホルの町に着くと、まず祈りました。その祈りは「きょう、わたしのためにどうか取り計らってください」という率直な祈りでした。水を求めたららくだにも与えた娘がその人であるように、と。

祈り終える前からリベカがすでに来ていました。そしてその通りにします。祈る先にすでに主は答えを用意して下さるのです。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「イシュマエルの祈り一 幼子の声を聞かれる主」

「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。 どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。』(創世記21章17節)

 アブラハムにイサクが生まれたため、先に妾の子として生まれていたイシュマエルは母と共にそこから追い出されることとなりました。この箇所だけ読むとイシュマエルは幼児のような感じがしますが、前後の聖書からその時彼は14・5歳であったことが分かります。

食べるものも飲む物もない荒野に追い出された母子はそこで死を待つしかない状況になります。ついに水が尽き弱り果て死にそうになった子を見るに忍びなくなった母は彼を投げ出して少し離れたところで座り声を上げて泣きました。

その時に御使いが彼女に語るのです。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」 

主は子どもの声を聞かれます。その弱さの故に、小ささの故に、その声に誰よりも耳を傾けて下さるのです。

子どもたちの小さな奉仕を喜ばれ、子どもたちの一所懸命な姿を喜ばれるのです。

主イエス様が言われた「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われた言葉を心に留めましよう。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91