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「世界食料デーのために祈ろう」

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」      (マタイ25章40節)

沖縄で世界の飢餓を覚えて支援する食料デーが始まって30年が過ぎました。

最初の実行委員長は当教会の国吉守先生でした。当時は世界の飢餓に対する気運も高く沖縄から多くの献金を捧げることが出来ましたし、那覇教会でも多くの方々が志を持って捧げていました。

しかし残念なことに昨今は意識が低くなっており、大会への参加者も減少しているのが現状です。

しかし今なおも銑界の飢餓は続き多くの国々の人々が飢えのために毎日死んでいる現実があります。

私たちは普通飢え死にすることはありません。日本では、多くの食材が家庭においてもレストラン、スーパー、コンビニでも毎日のように捨てられています。

私たちの国が捨てている物だけでどれだけの国々の人たちの命を助けることが出来るかを考えるならば富んでいる私たちは弱っている方々や飢えている方々のために捧げるべきなのです。

 イエス様は冒頭の御言葉の中で弟子たちに、これらの弱っている者や飢えている者、貧しい者たちにしたことは、わたしにしたことと言われました。

イエス様への奉仕と献身の心をもって食料デーのために祈り、協力し参加しましょう。

2017年9月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 18nahabap91

「熟練信仰へ成長」

 「・・・『わたしに従いなさい。』」
        ヨハネ21章19節

 72年前、日本が戦争で敗れ、300万人以上の人命を失い、焦土となり、戦後の歩みが始まりました。

その中で教団教派を超えて戦前、戦中の誤った教界の歩みを悔い改めています。世俗と迎合し、聖書が教えるまことの神様に背き、神でもないものを神としたからです。

そこで主の憐みと赦しを覚え、多くの助けを得てきました。それは愛による回復期と言えます。そして成長していくのです。

書の人物ペテロもパウロもそれを経験しています。そして私たちもそうです。今、私たちは主の手足として生きる成長期の中にいます。

しかし現実は厳しいと感じるでしょう。或いは自らの考えや負の感情に縛られ、回復はまだだと思うでしょう。

でも私たちはキリスト者です。新しく生まれ変わった、世俗や自らの弱さを乗り越えて勝利する者です。

それが熟練した真の信仰なのです。

今こそ私たちは殼から出て、キリストを明らかにしましょう。世俗、死も悩みも恐れず勝利の主と共に進みましょう!

2017年9月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 18nahabap91

「ヒゼキヤの祈り一主の前に」

「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。」 (Ⅱ列王記19章16節)

 分裂王朝時代の後半、アッシリヤ帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされ、南ユダ王国にもその侵略の手が伸ばされようとしていた時です。

時の王はヒゼキヤ王であり、父親が偶像礼拝を国に蔓延させたのとは反対に、徹底的に国から偶像を排除した王でした。

特筆すべきは、かつてモーセの時代に作られた青銅の蛇をも彼は破壊し一切の偶像となりうるものを国から取り除いたことでした。

改革者であるヒゼキヤ王はそれ以外にも公共事業として水路を国に通したり、アッシリヤ帝国に対しても従属的姿勢よりも対等の国交を樹立しようとしました。

しかしそれはアッシリヤが攻め込む格好の理由を与えてしまったことになります。アッシリヤのセナケリブ将軍の侮蔑的な手紙は力を背景にした無慈悲なものでした。

ユダ王国の国力では到底アッシリヤの大群に抗うことは出来ない状況でした。しかしそのような時にヒゼキヤは祈るために主の前に行くのです。

主の前に手紙を広げ、主よ聞いてください、ご覧ください、と語るその姿勢は正に目の前にいる神様を体験している信仰者の姿勢そのものなのです。

2017年9月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : 18nahabap91

「アブラハムの祈り一執り成し続ける」

「『主よ。どうかお怒りにならないで今一度だけ私に言わせて下さい。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。『滅ぼすまい。その十人のために。』」       (創世記18章32節)

信仰の父と呼ばれたアブラハムの執り成しの祈りは私たちの執り成しの模範的な姿勢です。

彼は基本的には神様が罪をさぱくことに対して異を唱えていませんが、もしもその町に正しい者がいたらどうでしょうか? という仮定の話を持ってそのさばきが取りやめられる可能性を訪ねたのです。

最初アブラハムは50名の正しい者がいたならば、と主に問いかけます。

主はその50名のためにさぱきを止めると言われます。次にアブラハムは45名とすると、同様に主は答えました。40名、30名、20名、と繰り返しアブラハムは問いかけ続け、ついに10名ならば?と問いかけるのです。

「滅ぼすまい。その十人のために」と主は応えて下さいました。

 アブラハムは実に5回に渡って神様に問い続け、主の御声を頂いたのです。

アブラハムの祈りの動機は憐れに思ったこと、つまり愛だと考えられます。

またアブラハムの姿勢は、決してあきらめないで主の前に立ち続ける祈りでした。このすがたこそが私たちの執り成しの祈りなのです。

2017年9月2日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「アダムの祈りーふさわしい助け手」

「人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけて。しかし人にはふさわしい助け手が見つからなかった。」(創世記2章20節)

 今日から旧約聖書の信仰者たちの祈りについて学んで行きます。最初に取り上げるのは聖書中最初の人物であり、神様の御手によって造られたアダムです。

 アダムは神様からのご命令を受けて動物に名前を付けると言う作業をしました。その作業の中でアダムが気付いたことは全ての動植物はつがいなめに自分だけがひとりぽっちであることでした。

そこでアダムの内に自分にもふわさしい助け手がほしい、との願いが生まれます。祈りの基本は願いであると言ってよいでしょう。

しかし必要に気付かず方法を理解しない人間は見当外れの願いを、見当外れの方法でしてしまうものです。イエス様の御名を通さない祈りを捧げる多くの人の姿がこれです。

 まず気付くべきは願いを起こさせたのも神様であったということです。神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、アダムに必要への気付きを与え、そして願いへと導かれます。

神様は人の自由意思を重んじられる方で、私たちの意志を無視して全てを与えられません。

まず本当の必要に気付き、それを主に願い、与えられることこそが正しい祈りの姿勢です。

2017年8月5日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91