赦されているから赦す

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節)

 日本語には「ゆるす」という漢字が2種類あります。一つは「許す」でもう一つが「赦す」です。

聖書が記す神様の教えは「赦す」ことを命じておられ、それこそが信仰の土台であり、原点であることを示すのです。

主の祈りの5番目の祈りは「赦し」についての祈りであり、人間関係において最も重要な姿勢がここにあります。誰かを赦せないという気持ちを持ちながらイエス様の信仰を保つことは難しいことです。

なぜならばイエス様の教えの大前提として神様の愛と赦しがあるからです。イエス様によって救われたクリスチャンは何よりも赦す人でなければならないのです。

 聖書では「負いめ」と訳されている言葉は端的に言うと「罪」のことを現わします。

この祈りはそのまま読むとあたかも神様から罪を赦されることは、私たちが誰からの罪を赦した条件のように読めます。

しかし神様の救いや赦しは、私たちが何かをしたから与えられたものではなく恵みです。

むしろこの祈りは弟子たちに与えられた模範的な祈りであることを考えるならば、すでに赦されているからこそ、誰かを赦すことが出来るものになる、そんな告白なのです。

2017年6月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

平和をつくる神の子ども!

「平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」 (マタイ5章9節)

 毎年巡って来る6月は沖縄にとって忘れてはならない月で、23日の「慰霊の日」がその中心です。

72年前県民は23万人余の沖縄戦犠牲者を覚えて、2度とあの悲惨で残酷な戦争をしてはならないと誓ったのです。

この県民の決断を継承するのが慰霊の日です。

戦争体験をしたから戦争に反対し、体験してないから分からないというものではない。人殺しの経験がないから人殺しがよいか悪いか分からないという人はいないのです。

ういう人はサタンの子です。サタンは初めから人殺しで天地の創造主であるいのちの主なる神に挑戦しているのです。サタンは戦争を人間同士の戦いに見せかけて、心で笑い喜んでいるのです。

これがサタンの策略です。

 私たちはもうサタンの策略に鴫されず、平和こそ父なる神の御心であり平和の君であるキリストの御心であり、聖言による聖徒の一致こそ三位一体の神、歴史の主なる神の御心である事を共に確信しましよう。

そして主と共に前進する事を誓い合いましょう。

私たちの必要は!

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」 (マタイ6章11節)

 人間が生きるためには必要なものがあります。

空気がなければ大は生きられません。飲食物がなければ大は生きられません。健全な環境がなければ大は生きられません。周りの大がいなければ大は生きられません。

人間とは「人の間」と書きます。

誰かとの関わりと誰かの助けなしで生きられる大は誰もいないのです。また知識の正しい伝達をしなければ大は生きられません。そして神様の恵みがなくては大は生きられないのです。

 今日の御言葉が示す「糧」は直接的には食べ物ですが、その真意としては私たちが生きて行くために必要な全てのものを表わしています。

そしてそれはこの祈りにあるように神様が与えて下さっているものであるとの信仰が必要なのです。

またこの祈りは「日ごとの」とあるように毎日毎日の祈りです。

私たちが生きるために必要なものは日々、神様が与えて下さっていることを認め、感謝をもって一つ一つを受け取り、信仰によって歩む者となりましよう。

 

2017年6月11日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「天でも地でも」

「・・・みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
(マタイ6章10節)

神様の御心はなかなか簡単に分かるものではないかもしれません。

聖書に記されている「全ての人が救われること」や「神の国とその義を第一にすること」や「神を愛し、人を愛すること」等は、明確に分かりますが、具体的な人生の中での様々な選択を迫られる時、どちらが御心なのか分からないことも多々あります。

御心を探り求め続ける祈りがクリスチャンには必要です。

 主の祈りにおいて、神様の御心は天においては完全に行われている、という真理があることに気付きます。それは同時に地上においては神様の御心は行われない事もあることを示します。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

一つは神様ご自身がその創造の業の折に地上の事を人間に委託されたからです。人は地上を管理し、正しく 導く使命を与えられているのです。

しかし現実には人間の世界は、戦争やテロ、飢餓や、国々の葬いや内乱が絶えることがありません。

 20世紀からこのかた戦火が途絶えたことがないのが人間の現実です。そのような中で信仰者は「平和をつくる者」となることを期待されています。特に沖縄においてはこの6月、まことの平和の主による平和の実現を祈る者となりましょう。

主に対するように!

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」  コロサイ3:23

 今日の聖書の箇所は夫婦関係、親子関係、主人と奴隷の関係、という三つの関係のあり方を記しています。

特に信仰者としてどのように他者との関係を持つべきかは大切なことで。人間の問題や悩みの9割は対人関係であるといわれます。

私たちも対人関係が正しく問題なくなされているならば恐らくほとんどの悩みは解決しているのではないでしょうか。 大切なことは23節の御言葉です。 

「人に対してではなく、主に対してするように」という姿勢はクリスチャンの対人関係の原則です。

3組の関係で共通することは「従うこと」です。
まず私たちは神様に従うことが大切です。そしてその結果、目の前にいる人に従うということも出来るのです。

それはいやいやながらとか形式的な従順ではなく、「心から」のものとなります。

まず神様に対する正しい姿勢を学び、そこから正しい対人関係を得させていただきましょう。

2017年3月10日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

愛は結びの帯として完全!

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」  コロサイ3:14
 

  イエス・キリストを着たクリスチャンの具体的な歩みについて今日の箇所では教えられています。

私たち自身が身に着けるキリストという服は具体的には「深い同情心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」という内なる性質を示すものがあります。これはイエス様ご自身のご性質に他なりません。

これらが行動として現されるのが「赦し」なのです。私たちは他の人がやることや言うことに不満を抱くことがあるかもしれません。

しかしその様な時にこそキリストを着た私たちは互いに赦し合う者となるべきなのです。

それはイエス様が十字架の上で現された最高の愛だからです。イエス様を模範とする私たちはまず赦し合う群れでありましょう。

キリストという服を着るために腰に巻く帯は「愛」です。

神様の愛が私たちにイエス様を教えてくださり、イエス様のようにすることが出来るようにしてくださるのです。

その結果としてキリストの平和が心を支配し、キリストのことぱが豊かに内に住み、主の名によって全てを行うことが出来るようになるのです。

 

2017年3月10日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

神の栄冠を得るために!

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」  (ピリピ3:8)

 クリスチャンの歩みは旅や登山に例えられるように、目的地に向かって進む歩みです。生きている限りは道半ばなのです。私たちも前に向かって進む、目標に向かっていく、そのよな心を持つことが大切です。

  そこに信仰者としての成長があるからです。パウロはまずイエス様の復活の力を知ること、そしてイエス様の苦しみにあずかること、さらにイエス様の死と同じ状態を求めます。

  つまり十字架への道、それこそが復活に達する、つまり永遠の命を持って生きる信仰者の目標だからです。言葉で言うのは簡単ですが、十字架の道とは忍耐と苦難であり、不本意な状況でも苦しみの中でもイエス様がそれを忍んだように忍び、祈ったように祈ることです。

  さらにイエス様の死と同じとは不当な裁判の中でも黙して耐え忍び神様の御心を成し遂げるために立ち続けたイエス様の姿であり、苦しみにながら死んでいったイエス様の姿です。簡単に出来ることではありません。

しかしそんな信仰の歩みを全うしたものに神様が栄冠を与えて下さるのです。

2016年10月16日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「そこ!が世と違う」

「・・・互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」    (ヨハネ13章34~35節)

 先日、国道沿いの看板が目に留まりました。方言でアジア諸国は皆兄弟という意味で書かれていました。様々な違いを越えて受容する事が大切です。

 それは分かっているが家庭や教会の中でも意見が異なり、難しく感じます。聖書に登場する弟子達もそうでした。その多様な人々を大切にし、受容する主イエス様。遂に言葉だけではなくいのちを犠牲にし、その愛と赦しを現しました。その方に私たちも倣います。

信じて、内面を明け渡し、従う時に上記のお言葉が成就します。残念ながら私たちの住む社会は古い人、生まれつきの堕落した人間性がむき出しです。

相模原市の施設で起きた事件やヘイトスピーチなど排斥、憎悪主義がその闇を濃くしています。ですから世へ光を輝かし、灯すのが私たちです。

 今こそ社会へ向けてイエス様のお心を明らかにしていきましょう。

2016年10月15日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

キリスト・イエスを知っていることのすぱらしさ

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」 (ピリピ3:8)
イエス様との出会いは人生で最大の祝福と言ってもよいでしょう。昔から 「人生は出会いで決まる」と言われますが、私たちは人生で出会った大たちによって影響を受け、人生観や生きざまが決まっていくものです。

その中で自分の基準が生まれ、良いものと悪いもの、価値あるものと価値のないもの、と判断するようになりました。

パウロがイエス様と出会う前に持っていたものは全て、当時のユダヤ人の基準で言えぱすぱらしいものばかりで、他者がうらやむようなステータスでした。

しかしパウロは誇らしげに高らかに宣言します。「これらは全部損である」、「ちりあくた(ごみ)である」、と。それはキリストがあまりにもすばらしいから、その救いもイエス様による人生の祝福も他のものと比べることも出来ないほどにすぱらしいからです。

私たちはどれだけイエス様を知っていることの素晴らしさを自覚しているでしょうか。イエス様の救いは人生の方向を変え、意味ある価値あるものにします。
自己中心な生き方から神様中心の生き方になります。これこそが幸いの道なのです。

hana

2016年10月15日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

イエス・キリストは主である!

「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほ
めたたえられるためです。」         (ピリピ2章11節)
 イエス様にあってクリスチャンが求められていることは一節に記されている「励まし」であり、「愛の慰め」であり、「御霊の交わり」であり、「愛情とあわれみ」です。これらはすべて誰かとの関係の中であらわされるものであることに気づきます。

クリスチャンは他者との関係が誰よりも優れている者であり、謙遜で他者を優れたものと認めることが出来るものであることを知ります。

その意味で「自己中心」や「虚栄」は自らの内に戒め退けるのです。サタンは高慢な思いにつけこんできます。謙遜な生き方こそがイエス様に倣う者の姿勢です。

パウロは私たちにイエス様が常に誰かのために生きていた生き方を模範とすることを求めます。

それは自らの本質である神の姿をも拾てられ人となり、それどころか犯罪人のように十字架の死にまでも従われたのです。この姿こそ主であるイエス様であり、私たちが目指すべき姿なのです。

2016年8月23日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91