人間のたましいをとる漁師になるのです

イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 (ルカ5章10節)

この言葉の正確な意味は、「あなたは人間を生け捕るであろう」という言葉なのです。

「人間を生け捕る」というのは、実は「人間を生かす、人間に生命を与える」という言葉が使われています。捕まえて殺すのではない。生かすというのです。

キリストの福音を伝えることによって人を生かす。私たちは食事をすることによって生命を保つことができます。私たちが食べる食物は、それ自体生命を持ったものでした。

お米も野菜も魚も肉も、すべて生命あるものが私たちに生命を与えるために死んでくれた、私たちはそのような生命をいただいて生きているのです。キリストは「わたしは生命のパンである」と言い、ご自身を私たちを生かす生命のパンとして与えてくださった。

このキリストの生命をいただき私たちは生きるのです。聖餐式はそのことを表しています。

主がヘテロにあなたはこれから人間を生かすために働くのだと言われたのは、そのようなキリストの生命を人々に与え、福音を宣べ伝えるという働きにペトロたちは召し出されたということです。

私たちも人間のたましいを生かす働き人に成長し福音を伝える人として出ていきましょう。

2017年11月11日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

主はモーセに仰せられた。

「主はモーセに仰せられた。『あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」     (出エジプト記33章17節)

 イスラエルの民はモーセ不在の時致命的とも言える罪を犯してしまいました。それは金の子牛を作り、それを神であると告白し、偶像礼拝と遊興にふけったことです。

神様から十戒の板を受け取り帰って来たモーセは怒りのあまりその板を地面にたたきつけて割ってしまったのです。

モーセは自分が命の書から名を消し去ってもらっても構わないから民を赦して欲しいと願うのです。これは旧約聖書の執り成しの祈りの中でも最も偉大な自己犠牲の祈りです。

そして33章には民への厳しいさばきを宣言された神様とモーセの会話が続くのです。

 モーセの必死の執り成しは続きます。モーセは神様と顔と顔を合わせるように祈ったと記されています。神様との距離感の近さがその信仰のあらわれです。

神様自身がモーセについて「わたしの心にかなう」と言って下さっていることは何と大きな光栄でしょう。それは同時に「主が共にいる」という約束につながっています。

私たちをも選び共にいて下さる主に心から感謝致しましょう。

2017年11月11日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「文書伝道デーに協力しよう」

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」        (ピリピ2章16節)

 昨今は電子文書の広がりや、通信販売の充実から出版業界が厳しいと言われています。大手の一般書店も軒並み閉店するような時代です。

そのような中にあって沖縄にはOBCのキリスト教書店といのちのことば社のライフセンターの2店舗が現在も営業出来ていることは神様の憐れみと奇蹟的な出来事なのです。

 しかし普通に考えても中々本が売れない時代に、キリスト教関連の本だけを扱っているということは当然経営も運営も厳しい中にあります。まず私たちが協力的にこれらの書店を支援し、多くの書籍やグッズを購入しましょう。

なぜならばその目的はどこまでも伝道にあるからなのです。那覇バプテスト教会では年に2回文書伝道デーを設けて、キリスト教書籍やグッズをエントランスで販売しています。

それはイエス様の福音がありとあらゆる手段を通して、一人でも多くの方々に伝えられるためであり、私たちの言葉では伝えきれない主のすばらしさを救われてほしいその人にお伝えするためだからです。文書伝道デーに協力しましょう。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「モーセの祈り一祈る者、支える者-」

「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。」     (出エジプト記17章11,12揃)

 イスラエルがアマレク人と戦いをした時の出来事です。実際に先頭に立って戦ったのはヨシュアでしたが、背後にあってモーセも戦っていたということが分かります。

それは執り成の祈りの戦いでした。丘の頂から戦況を見た時、モーセが手を上げて祈っている時はイスラエルが優勢となり、手を降ろしていると劣勢になったというのです。

ここまで明確に祈りの効果を見ることは中々ないことかもしれません。

しかしこれを見たモーセは何としても手を上げ続けることとするのです。これは一人ではなかなか難しいことでした。

モーセにはアロンとフルというサポーターが与えられました。モーセのために座る石を用意しまた両手をわきから支えたのです。

ついにモーセはイスラエルが勝利するまで祈りの手を上げ続けました。

同じように私たちも自らが祈る時、共に祈り支えてくれる信仰の友を得たいものです。それこそが信仰の勝利につながります。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「ヨセフの祈りー主が共におられるー」

「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼と共におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39章23節)

 ヨセフの人生の成功の秘訣は何でしょうか。それはいつでもどこにいても「主が共にいる」という生き方にありました。

悲劇的ともいえる人生の中に彼は「主にあって幸運な者」との異名をもらっています。普

通に考えれば失望と怨み、嘆きばかりで綴られるような困難な人生のただ中にあって、彼の口から出ている言葉は神様への祈りだったのです。

彼はどこにいても神様に祈り、そこで共におられる神様を体験し続けます。鴫されても、ひどい目にあわされても、誤解されても、神様と共にいることを止めない生き方がヨセフにありました。

そしてそれこそが私たちの人生の成功と祝福の秘訣でもあるのです。

 主が共にいて下さる人生は祈りの人生です。主がここにいて聞いて下さるという確信。主が祈りに答えて下さるという希望。主のなさることは最善であるという信頼。

そこに立つ信仰者の祈りはヨセフ同様の何をしても成功し、主の祝福を見ることができる「主にある幸運な者」となる祈りなのです。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「真の神が気にかかるもの」

「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。・・・」        (詩篇8篇4節)

 社会を思うままに考える時の為政者も未知の事柄が数多くあります。上記もそれを教えています。

即ちダビデ王が、神は私たちを気にかけて下さると驚きをこめてほめたたえています。

 確かに心静めて良く思い巡らすと、暮らしの何気ない事や見過ごしてしまう事に神の恵み、その感動を得られます。

それが信仰の効果です。自分自身は生かされている存在で、何の為に生きるのかという答えは聖書から得られます。

それを幼子のように素直に信じるのみです。これは現代の為政者達にも必要な事です。

自己保身ではなく自我も捨て神と人々を愛する事に心を傾けると、神に喜ばれる対応ができます。

やはり権力者を含めて全ての人は神の言葉から悟り得て、ますます謙虚になり聖書が教えるまことの神を信頼し従うべきです。

そのためにキリスト者・教会の社会的な証しは重要です。

 乱世に生きる私たち。これからも信仰の目標である主イエスにますます倣い、証し続けましょう。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「ヤコブの祈り一恐れる時に」

ヤコブはひとりだけあとに残った。するとある人が夜明けまで彼と格闘した。」(創世記32章24節)

 私たちの心配ごとの9割は杞憂に終わると言います。私たちは多くのことを心配して生きていますが、そう思うと悩んでいる時間は実に無駄な時と思えるかもしれません。

しかし悩みを神様に打ち明け、豊かな祈りの時間に変えることが出来るならば、悩みも神様にあって祝福になるのです。

 ヤコブは兄に対する深い恐れの故に一人思い煩っていました。これは彼自身がかつて兄に対してした卑劣な糧し事に端を発しているので誰にも相談できず、一人もんもんとするのです。

しかしその兄との再会の時が近づいてきました。彼はいよいよ翌日兄エサウと会うという日にある場所で一人留まることにしました。

そしてある人と夜中から夜明けまで格闘した、とあるのです。これは実際の格闘と言うよりも戦うような祈りの時間、と言われています。

この人が神の使いであることは後で分かりますが、ヤコブはこの人を自分を祝福してくれるまで離さないとしがみついたのです。

ヤコブは色々と問題の多い人物でしたが、神様だけが祝福して下さる方ということをよく知っていました。私たちもヤコブのように神様と格闘し、しがみつき、祝福を勝ち取る祈り手となりたいものです。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「高齢の方々に感謝を」

「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはしらが。」(蔵言20章29節)

 那覇バプテスト教会には80歳以上のかたがたが75名ぐらいおります。これは恐らく日本でもなかなかない教会ではないでしょうか。

聖書においては高齢の方々を敬い、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。」(レビ記19章32節)とも記されています。

私たちは人生の先輩であり、信仰の先達の姿にならい、心からの敬意を表して感謝を現すものでありたいと思います。

 数年前「老人力」という言葉が紹介されていました。私たちはともすると年を取ることを悪いこと、衰えることと考えマイナスイメージを持ってしまいます。

 しかし老人力とは、高齢者はその年に相応しい力を身につけていることであり積極的に老いを生きることなのです。身体のどこかが以前と違っているならば、老人力がついたと表現します。前向きにその年を自分らしく生きて行きます。

70代には70代の80代には80代の90代には90代の積極的な生き様があります。そしてそれはまさしく聖書が記す信仰の世界にその真髄があるのです。

アブラハム、モーセ、ヨシュア、カレブなど信仰によって豊かに生きた高齢者のように那覇バプテスト教会のお一人お一人が豊かに歩まれますように。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「しもべの祈り一御心を求めてー」

「こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。」(創世記24章15節)

 信仰の父アブラハムは最大の試練ともいえる息子イサクを捧げなさいとの主のご命令を乗り越え、円熟した信仰に達しています。

しかしどのような段階の信仰者であれ、人生において悩みや問題がないと言うことはありえないことです。齢140になるアブラハムの唯一の悩みは息子イサクに相応しい連れあいが与えられていなかったことでした。

それはアブラハムに与えられた子孫の約束の実現のためにも不可欠であり、その頃妻サラが死んだことによる寂しさもあり、急を要する願いになっていました。

アブラハムは信頼するしもべに依頼し、イサクの嫁を連れてくるように命じます。

異教の神々を信じているカナンの地ではなく自身の故郷から、真の神を信じる女性をという命令です。これは膨大な時間を要する可能性もある仕事でした。

 しもべはナホルの町に着くと、まず祈りました。その祈りは「きょう、わたしのためにどうか取り計らってください」という率直な祈りでした。水を求めたららくだにも与えた娘がその人であるように、と。

祈り終える前からリベカがすでに来ていました。そしてその通りにします。祈る先にすでに主は答えを用意して下さるのです。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「イシュマエルの祈り一 幼子の声を聞かれる主」

「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。 どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。』(創世記21章17節)

 アブラハムにイサクが生まれたため、先に妾の子として生まれていたイシュマエルは母と共にそこから追い出されることとなりました。この箇所だけ読むとイシュマエルは幼児のような感じがしますが、前後の聖書からその時彼は14・5歳であったことが分かります。

食べるものも飲む物もない荒野に追い出された母子はそこで死を待つしかない状況になります。ついに水が尽き弱り果て死にそうになった子を見るに忍びなくなった母は彼を投げ出して少し離れたところで座り声を上げて泣きました。

その時に御使いが彼女に語るのです。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」 

主は子どもの声を聞かれます。その弱さの故に、小ささの故に、その声に誰よりも耳を傾けて下さるのです。

子どもたちの小さな奉仕を喜ばれ、子どもたちの一所懸命な姿を喜ばれるのです。

主イエス様が言われた「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われた言葉を心に留めましよう。

2017年10月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91