「アブラハムの祈り一執り成し続ける」

「『主よ。どうかお怒りにならないで今一度だけ私に言わせて下さい。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。『滅ぼすまい。その十人のために。』」       (創世記18章32節)

信仰の父と呼ばれたアブラハムの執り成しの祈りは私たちの執り成しの模範的な姿勢です。

彼は基本的には神様が罪をさぱくことに対して異を唱えていませんが、もしもその町に正しい者がいたらどうでしょうか? という仮定の話を持ってそのさばきが取りやめられる可能性を訪ねたのです。

最初アブラハムは50名の正しい者がいたならば、と主に問いかけます。

主はその50名のためにさぱきを止めると言われます。次にアブラハムは45名とすると、同様に主は答えました。40名、30名、20名、と繰り返しアブラハムは問いかけ続け、ついに10名ならば?と問いかけるのです。

「滅ぼすまい。その十人のために」と主は応えて下さいました。

 アブラハムは実に5回に渡って神様に問い続け、主の御声を頂いたのです。

アブラハムの祈りの動機は憐れに思ったこと、つまり愛だと考えられます。

またアブラハムの姿勢は、決してあきらめないで主の前に立ち続ける祈りでした。このすがたこそが私たちの執り成しの祈りなのです。

2017年9月2日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「アダムの祈りーふさわしい助け手」

「人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけて。しかし人にはふさわしい助け手が見つからなかった。」(創世記2章20節)

 今日から旧約聖書の信仰者たちの祈りについて学んで行きます。最初に取り上げるのは聖書中最初の人物であり、神様の御手によって造られたアダムです。

 アダムは神様からのご命令を受けて動物に名前を付けると言う作業をしました。その作業の中でアダムが気付いたことは全ての動植物はつがいなめに自分だけがひとりぽっちであることでした。

そこでアダムの内に自分にもふわさしい助け手がほしい、との願いが生まれます。祈りの基本は願いであると言ってよいでしょう。

しかし必要に気付かず方法を理解しない人間は見当外れの願いを、見当外れの方法でしてしまうものです。イエス様の御名を通さない祈りを捧げる多くの人の姿がこれです。

 まず気付くべきは願いを起こさせたのも神様であったということです。神様は「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、アダムに必要への気付きを与え、そして願いへと導かれます。

神様は人の自由意思を重んじられる方で、私たちの意志を無視して全てを与えられません。

まず本当の必要に気付き、それを主に願い、与えられることこそが正しい祈りの姿勢です。

2017年8月5日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「手を差し伸べる信仰」

「・・・このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。j          マタイ18章5節

 先週、善隣幼稚園の同窓会が行われました。そこで中学生の卒園児達も祈りの手を合わせました。信仰による教えは残り続ける事が改めて分かりました。

さて教会の約束にも子どもを御旨にそうように教えるとあります。社会でも次世代を担う子ども達に期待しています。

 しかし実際は本心からではない時があります。児童の生活困窮や大人の欲望の為に犠牲になり、さらに世界的視野で奴隷制や人身売買が横行します。

教会でも子どもに無関心で軽視していないか吟味する事が必要です。その傾向は今も昔も変わりません。

そこで私たちの主は彼らを特別な配慮で対応するようにと教えています。

義とされ御国の一員である私たちが今、彼らに本心で手を差し伸べるべきです。具体的に園教師の手当や日曜学校関係者の支援も充実させる事もできます。

それらは後回しせず今できる事は何かを考え、実際に取り組みましょう

2017年8月5日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「永遠の主のもの」

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」        (マタイ6章13節)

 主の祈りの最後の一文は、祈りというよりも信仰告白と言った方が良いのかもしれません。

この告白は今まで祈って来た方「天の父なる神」がどのような方であるかを証ししているのです。

それは国、力、栄光、この地上で権威あるもの、誉あるもの、栄えあるものと言われる一切は神様のものであるとの告白です。

元来、全てを造られたのがこの主なる神様であることを認めるならば、当たり前のこととも言える告白です。

しかし現実には人間はあたかも全てを自分の力や当然の権利のように思って感謝することの少ないものであり、本来の造り主に心を向けることが少ないものなのです。

この告白を通して全てが主から生まれ、主に栄光を帰するためにあることを認めるべきなのです。

 そして最後に「アーメン」で祈りをしめくくります。

アーメンはヘブル語の「真実です」や「同意します」などの意味で共同体としての告白です。

誰かが祈った時、その内容をしっかりと受け取り心からの信仰の同意をもってアーメンと言いましょう。

賛美の終わりには作者の信仰告白に心から同意してアーメンと言いましょう。

主の祈りの内容が私たちの日々の歩みの中で「アーメン|となるように。

 

主の祈り

天にいます私たちの父よ

御名があがめられますように

御国が来ますように

みこころが天に行われるように

地でも行われますように

私たちの日毎の糧を今日もお与えください

私たちが罪のある人を赦しましたように

私たちの罪もお赦しください

私たちを試みにあわせないで

悪からお救いください

国と力と栄とはとこしえにあなたのものだからです

ア-メン

2017年7月18日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

ダビデの信仰!

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」 (詩篇51:10)

 これはダビデがウリヤの妻バテシェバを奪い自分の妻にした時に預言者、ナタンがその罪を責めた時のことです。

一国の王であり、その国家の最高の権力者であったダビデは預言者を処罰する事もできたのですが、ダビデは自分の罪を認めナタンを遣わした神のみ前に全くひざまずき、自分の罪の赦しを願い祈っています。

ここにダビデの信仰の深さ、すばらしさが現われています。

人間の本当の強さは、人を殺す事ではなく、自分の罪を認め全く神のみ前にひざまずくことにあるのです。

さらにダビデは自分の弱さを知って、何度も同じ罪を繰り返す自分を認めて「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と願っています。

 最早、人間の力ではなく聖書の力により頼んでいます。ここにダビデの信仰の本当の弱さと強さがあるのです。 

私たちもダピデの信仰の深さと素晴しさをいつまでも持ちたいものです。

2017年7月10日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「試みを受けることなく」

私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6章13節)

 聖書で「試み」と訳されている言葉は「誘惑」という意味にも取れる言葉です。

イエス様が40日間荒野で過ごした後にサタンの誘惑を受けたことが聖彗にありますが、それと同じ言葉が今日の「試み」です。神様の御心から離そうとサタンが働きかけることがあります。

そのような時に信仰を持ってサタンを退けられるならば幸いですが、時にはその誘惑に屈して神様の御心を悲しませてしまうこともあるでしょう

 主の祈りの最後の祈りは試みからの守りの祈りです。それは私たちは弱い者であることを自覚し、認め、主に頼ることが一義的な意味です。

さらにサタンが働きかけて来た時、ひたすら主に頼ってサタンを退けることが出来るようにとの祈りでもあります。

イエス様が試みを受けた時にサタンの誘惑をことごとく退けることが出来たのは、神様の御言葉によってサタンの言葉を受け付けなかったからでした。

同様に私たちも試みを受ける時に勝利し主の卸心を選ぶために必要なのが神の御言葉なのです。

その意味で日々のディボーションや、御言葉の蓄積がいかに重要であるかを知らなければならないのです。

礼拝を守ることや 日々の祈り会に集うこと、教会の諸行事にも積極的に参加し御言葉の学びを重ね、御言葉を蓄えるならば、いざいう時にサタンに勝利できるのです。

 

 

 

 

 

 

2017年7月2日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

赦されているから赦す

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6章12節)

 日本語には「ゆるす」という漢字が2種類あります。一つは「許す」でもう一つが「赦す」です。

聖書が記す神様の教えは「赦す」ことを命じておられ、それこそが信仰の土台であり、原点であることを示すのです。

主の祈りの5番目の祈りは「赦し」についての祈りであり、人間関係において最も重要な姿勢がここにあります。誰かを赦せないという気持ちを持ちながらイエス様の信仰を保つことは難しいことです。

なぜならばイエス様の教えの大前提として神様の愛と赦しがあるからです。イエス様によって救われたクリスチャンは何よりも赦す人でなければならないのです。

 聖書では「負いめ」と訳されている言葉は端的に言うと「罪」のことを現わします。

この祈りはそのまま読むとあたかも神様から罪を赦されることは、私たちが誰からの罪を赦した条件のように読めます。

しかし神様の救いや赦しは、私たちが何かをしたから与えられたものではなく恵みです。

むしろこの祈りは弟子たちに与えられた模範的な祈りであることを考えるならば、すでに赦されているからこそ、誰かを赦すことが出来るものになる、そんな告白なのです。

2017年6月28日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

平和をつくる神の子ども!

「平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」 (マタイ5章9節)

 毎年巡って来る6月は沖縄にとって忘れてはならない月で、23日の「慰霊の日」がその中心です。

72年前県民は23万人余の沖縄戦犠牲者を覚えて、2度とあの悲惨で残酷な戦争をしてはならないと誓ったのです。

この県民の決断を継承するのが慰霊の日です。

戦争体験をしたから戦争に反対し、体験してないから分からないというものではない。人殺しの経験がないから人殺しがよいか悪いか分からないという人はいないのです。

ういう人はサタンの子です。サタンは初めから人殺しで天地の創造主であるいのちの主なる神に挑戦しているのです。サタンは戦争を人間同士の戦いに見せかけて、心で笑い喜んでいるのです。

これがサタンの策略です。

 私たちはもうサタンの策略に鴫されず、平和こそ父なる神の御心であり平和の君であるキリストの御心であり、聖言による聖徒の一致こそ三位一体の神、歴史の主なる神の御心である事を共に確信しましよう。

そして主と共に前進する事を誓い合いましょう。

私たちの必要は!

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」 (マタイ6章11節)

 人間が生きるためには必要なものがあります。

空気がなければ大は生きられません。飲食物がなければ大は生きられません。健全な環境がなければ大は生きられません。周りの大がいなければ大は生きられません。

人間とは「人の間」と書きます。

誰かとの関わりと誰かの助けなしで生きられる大は誰もいないのです。また知識の正しい伝達をしなければ大は生きられません。そして神様の恵みがなくては大は生きられないのです。

 今日の御言葉が示す「糧」は直接的には食べ物ですが、その真意としては私たちが生きて行くために必要な全てのものを表わしています。

そしてそれはこの祈りにあるように神様が与えて下さっているものであるとの信仰が必要なのです。

またこの祈りは「日ごとの」とあるように毎日毎日の祈りです。

私たちが生きるために必要なものは日々、神様が与えて下さっていることを認め、感謝をもって一つ一つを受け取り、信仰によって歩む者となりましよう。

 

2017年6月11日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「天でも地でも」

「・・・みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
(マタイ6章10節)

神様の御心はなかなか簡単に分かるものではないかもしれません。

聖書に記されている「全ての人が救われること」や「神の国とその義を第一にすること」や「神を愛し、人を愛すること」等は、明確に分かりますが、具体的な人生の中での様々な選択を迫られる時、どちらが御心なのか分からないことも多々あります。

御心を探り求め続ける祈りがクリスチャンには必要です。

 主の祈りにおいて、神様の御心は天においては完全に行われている、という真理があることに気付きます。それは同時に地上においては神様の御心は行われない事もあることを示します。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

一つは神様ご自身がその創造の業の折に地上の事を人間に委託されたからです。人は地上を管理し、正しく 導く使命を与えられているのです。

しかし現実には人間の世界は、戦争やテロ、飢餓や、国々の葬いや内乱が絶えることがありません。

 20世紀からこのかた戦火が途絶えたことがないのが人間の現実です。そのような中で信仰者は「平和をつくる者」となることを期待されています。特に沖縄においてはこの6月、まことの平和の主による平和の実現を祈る者となりましょう。