神の栄冠を得るために!

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」  (ピリピ3:8)

 クリスチャンの歩みは旅や登山に例えられるように、目的地に向かって進む歩みです。生きている限りは道半ばなのです。私たちも前に向かって進む、目標に向かっていく、そのよな心を持つことが大切です。

  そこに信仰者としての成長があるからです。パウロはまずイエス様の復活の力を知ること、そしてイエス様の苦しみにあずかること、さらにイエス様の死と同じ状態を求めます。

  つまり十字架への道、それこそが復活に達する、つまり永遠の命を持って生きる信仰者の目標だからです。言葉で言うのは簡単ですが、十字架の道とは忍耐と苦難であり、不本意な状況でも苦しみの中でもイエス様がそれを忍んだように忍び、祈ったように祈ることです。

  さらにイエス様の死と同じとは不当な裁判の中でも黙して耐え忍び神様の御心を成し遂げるために立ち続けたイエス様の姿であり、苦しみにながら死んでいったイエス様の姿です。簡単に出来ることではありません。

しかしそんな信仰の歩みを全うしたものに神様が栄冠を与えて下さるのです。

2016年10月16日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「そこ!が世と違う」

「・・・互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」    (ヨハネ13章34~35節)

 先日、国道沿いの看板が目に留まりました。方言でアジア諸国は皆兄弟という意味で書かれていました。様々な違いを越えて受容する事が大切です。

 それは分かっているが家庭や教会の中でも意見が異なり、難しく感じます。聖書に登場する弟子達もそうでした。その多様な人々を大切にし、受容する主イエス様。遂に言葉だけではなくいのちを犠牲にし、その愛と赦しを現しました。その方に私たちも倣います。

信じて、内面を明け渡し、従う時に上記のお言葉が成就します。残念ながら私たちの住む社会は古い人、生まれつきの堕落した人間性がむき出しです。

相模原市の施設で起きた事件やヘイトスピーチなど排斥、憎悪主義がその闇を濃くしています。ですから世へ光を輝かし、灯すのが私たちです。

 今こそ社会へ向けてイエス様のお心を明らかにしていきましょう。

2016年10月15日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

キリスト・イエスを知っていることのすぱらしさ

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」 (ピリピ3:8)
イエス様との出会いは人生で最大の祝福と言ってもよいでしょう。昔から 「人生は出会いで決まる」と言われますが、私たちは人生で出会った大たちによって影響を受け、人生観や生きざまが決まっていくものです。

その中で自分の基準が生まれ、良いものと悪いもの、価値あるものと価値のないもの、と判断するようになりました。

パウロがイエス様と出会う前に持っていたものは全て、当時のユダヤ人の基準で言えぱすぱらしいものばかりで、他者がうらやむようなステータスでした。

しかしパウロは誇らしげに高らかに宣言します。「これらは全部損である」、「ちりあくた(ごみ)である」、と。それはキリストがあまりにもすばらしいから、その救いもイエス様による人生の祝福も他のものと比べることも出来ないほどにすぱらしいからです。

私たちはどれだけイエス様を知っていることの素晴らしさを自覚しているでしょうか。イエス様の救いは人生の方向を変え、意味ある価値あるものにします。
自己中心な生き方から神様中心の生き方になります。これこそが幸いの道なのです。

hana

2016年10月15日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

イエス・キリストは主である!

「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほ
めたたえられるためです。」         (ピリピ2章11節)
 イエス様にあってクリスチャンが求められていることは一節に記されている「励まし」であり、「愛の慰め」であり、「御霊の交わり」であり、「愛情とあわれみ」です。これらはすべて誰かとの関係の中であらわされるものであることに気づきます。

クリスチャンは他者との関係が誰よりも優れている者であり、謙遜で他者を優れたものと認めることが出来るものであることを知ります。

その意味で「自己中心」や「虚栄」は自らの内に戒め退けるのです。サタンは高慢な思いにつけこんできます。謙遜な生き方こそがイエス様に倣う者の姿勢です。

パウロは私たちにイエス様が常に誰かのために生きていた生き方を模範とすることを求めます。

それは自らの本質である神の姿をも拾てられ人となり、それどころか犯罪人のように十字架の死にまでも従われたのです。この姿こそ主であるイエス様であり、私たちが目指すべき姿なのです。

2016年8月23日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

キリストと教会

「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」

   (エペソ5章32節)

 本日のテキストは結婚式に必ず朗読される夫婦のあり方が記されている箇所です。夫に求められることは妻を愛することです。

ここで言う愛とは、キリストが愛されたようにとある通り、自分を犠牲にすることを厭わずに注ぎ続ける愛です。口先だけのものではなく、実際的、実践的、行動的な愛なのです。

また妻に対しては夫に従うことが求められます。

 それは教会がキリストに従うようにとありますから、絶対的な信頼と服従が求められていることが分かります。注意すべきことは、夫婦がこの御言葉を読む時に、夫が妻に対して、妻が夫に対して御言葉を持って批判するようなことがないようにということです。

こまでも夫は夫に宛てられている「愛すること」、妻は妻に宛てられている「従うこと」が出来ているかどうかを考えるべきなのです。ここに示されているのはキリストと教会の麗しい関係です。

これこそが夫婦関係の最も素晴らしいひな型なのです。

2016年5月8日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

光の子どもらしく歩みなさい

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」         

(エペソ5章8節)

 光と闇という大きな対比は私たちの人生を表しています。聖書の言う光と闇はこの世のいうものとは少し違うものです。

イエス様と出会い新しくされた人生は光であり、イエス様を知らず無視して生きている人生は闇です。聖書に従い神様に従って生きる人生は光であり、自己中心と自己実現に終始する人生は闇です。

ですから、聖書で暗やみを歩いていると表現されているのはことさらに罪深い生き方とか、悪い人間のことではなく生まれながらの全ての人を指しているのです。

 感謝すべきことは、私たちは今は光となった、「光の子ども」である、と聖書が宣言してくださっていることです。

自分たちの姿を省みるととても光と言えないかもしれません。しかし主が言われたことは必ず成ります。

ですから暗やみの生き方、性質を振り捨てて光の子らしく生きていきましょう

 

2016年5月7日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

主任牧師の就任式がありました。

2016年4月5日に主任牧師の就任式がありました。

 長年、「那覇バプテスト教会」の主任牧師を務めてこられました国吉守牧師に変わり、副牧師の城倉翼牧師が主任牧師に就任しました。

国吉守牧師は、名誉牧師に就任されます。

お二人の牧師に神様の豊かな祝福と、那覇バプテスト教会にもさらなる主の祝福と導きがありますように。

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「世界の人々のすぱらしい喜び!」

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」  (ルカ2:11)

クリスマスの驚くべき3つの奇跡

①世界最大の誕生会・イベント

 日本の天皇誕生日は、日本人が祝い、アメリカの初代大統領の誕生日はアメリカ人が祝います。しかしイエス・キリストの誕生は世界が祝います。世堺唯一の救い主だからです。

②人間を罪と死からの救いの奇跡

 人は皆、アダムとエバの犯した不信仰の罪と死を背負っていますので、義人は一人もいないと神は宣言しています。 死刑囚が死刑囚を赦し救うことができないように、救い主は人間からは出ません。神が人となって十字架の死により人間は罪が赦され死から解放されます。

③人が神の子どもとなる奇跡 

 主イエスはあなたの心の扉を叩き紬けています。若し自分の心の戸を開けてイエス様をあなたの心の中に迎えるなら、あなたは永遠のいのちを持つ辨の子どもとなる奇跡が実現するのです。

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2015年12月20日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「証しのある信仰生活」

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12章2節)

献堂10周年に向けての証しリレーが丁度折り返しになりました。前半5名の証しも神様の恵みと祝福に満ちたすばらしいものでした。

皆に共通することは神様がどんなにすぱらしいことをして下さったか、という告白であったことでしょう。それはイエス様に目を注ぐことが出来るかどうかにかかってきます。

証しとは生きて働く神様が自分のような小さなものにも関わって下さり、働いて下さり、恵みを注いで下さったことの紹介です。その意味ではクリスチャンであれば皆証しが出来るはずなのです。

なぜなら、私たちは神様の特別な恵みだけでなく多くの日常の恵み(健康、家族、仕事、人間関係、経済)においても満たされ続けているからです。

大切なことは私たちの信仰を形作り、完結させて下さるイエス様から目を離さないように生きることなのです。

2015年9月13日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91

「天の御国に入る者」

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と 言う者がみな天の御国に入るのではな く、天におられるわたしの父のみここ ろを行う者が入るのです。」

(マタイ7章21節)

 

私たちクリスチャンは天国に国籍を持ち、天の御国にあこがれて、地上で は寄留者で旅人として歩む者です。イエス様を信じた時に永遠の命が約束され天の御国は保証されています。

今日の箇所だけを読むと自分は大丈夫だろうか、と不安を感じてしまうかもしれません。

しかし大丈夫です。この箇所はよく読めば神様のことぱを曲げて伝 えたり、違う福音を語るような偽預言者への警告の箇所だからです。これらの者を見分けるには「実」によるとイエス様は言われました。

確かな実を結ぶ者は主につながる者であり、実を結ばない者、悪い実を結ぶ者は主につながっていない者です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われたイエス様にクリスチャンは皆つながっているのです。

聞こえの良い偽預言者の語る、きらびやかな大通りではなく、イエス様の言われた見つけにくい狭い門から入ること、そのように生きることこそが御国に入る者の生き方なのです。

2015年9月6日 | カテゴリー : 城倉牧師 | 投稿者 : 18nahabap91