那覇バプテスト教会で長年ご奉仕された大長幸一郎先生が、9月いっぱいで那覇バプテスト教会の牧師を退任されることになりました。
先生の長年の労苦に感謝を込めて、先生ありがとう-感謝・激励会があり、150名近くの方が集いました。
涙あり、笑いありと先生の人柄があふれる感謝な会となりました。
信徒にとっては、寂しいことではありますが、先生のご家族のうえに、神様の導きと、豊かな祝福をお祈りいたします。
那覇バプテスト教会で長年ご奉仕された大長幸一郎先生が、9月いっぱいで那覇バプテスト教会の牧師を退任されることになりました。
先生の長年の労苦に感謝を込めて、先生ありがとう-感謝・激励会があり、150名近くの方が集いました。
涙あり、笑いありと先生の人柄があふれる感謝な会となりました。
信徒にとっては、寂しいことではありますが、先生のご家族のうえに、神様の導きと、豊かな祝福をお祈りいたします。
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
(エペソ5章19節)
今日の聖書の御言葉には具体的なクリスチャンの歩みが記されています。私たちがどのように歩むかはエペソの手紙に一貫するテーマの一つですが。ここでは賢い人のように歩むことが勧められています。
様々なことが記されていますが第一に機会を充分に生かすこと、第二に主のみこころを悟ること、第三に酒に酔わず御霊に満たされること、第四に賛美を共有して捧げること、第五すべてのことを感謝すること、そして第六に互いに従い合うこと、です。
その中でも四番目の賛美を共有して捧げる勧めは興味深いものがあります。「詩と賛美と霊の歌」はあらゆる種類の神様をほめたたえる賛美を表します。
これらは互いに主の素晴らしさを語るため、つまり証しのためです。また賛美は大にではなく神様に向かって心からささげるものであることを教えられるのです。
「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだとおもってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」 (マタイ5章17節)
聖書の最初の五書をモーセ五書といい、これは律法の書と呼ばれています。イエス様の時代最も重要な規定として定められており、パリサイ人や律法学者たちが厳格に守ることを命じていました。
厳密には彼らはこの律法をさらに細かく規定し聖書に書いてあることをもっと細かく定めたのです。その結果、本来神様が与えた時の趣旨とは異なり律法を守るために律法があるようになりました。
イエス様の言葉は彼らの定めた律法に対して本来の意味を問うものでした。イエス様は律法を守ることでは人間が神様のみもとに行くことは出来ないということを教えられました。
誰も神様の前に義人はいないからです。神様との道を開き律法を完成することが出来るのは、イエス様だけでした。イエス様の十字架の救いだけが神様と人を結び合わせる律法の完成なのです。
「あなたがたは地の塩です。・‥あなたがたは世界の光です。」
(マタイ5章13、14節)
地の塩と世界の光はそれぞれ地上に置けるクリスチャンのあり方を示しているお言葉です。
地の塩が現すことは第一に料理のために用いられるように味付けをすることです。世の中に影響を与え信仰の味をつけることを期待されているのです。
第二に防腐剤の役目です。罪にまみれ神様から離れた地上に神様の愛を語り、そのまま腐っていくことがないようにするのです。
第三に聖めの役目です。実は聖書に塩は聖める神様への捧げものとして出てくるのです(レビ記2:13、民数記18:19、エゼキエル43:24)。信仰者は汚れを防ぐだけでなく、積極的に世の中を聖めるものでありたいのです。
さらに私たちは「世界の光」でもあります。山の上の町が隠れないように、世に出て行き主にある光を輝かせる者となりましょう。
「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。」
(マルコ5:27)
会堂管理者の娘を癒すため、イエス様はヤイロの家へ向かいました。急ぐイエス様に近づく一人の女性がいました。
この人は12年もの間、血が流出する婦人病に苦しんでいました。多くの医者にかかりながらも、一向に改善されません。むしろ悪くなる一方で、彼女は失意のどん底にいました。
ある日、この女性がイエス様のことを耳にしました。病を癒すイエス様の御業を聞いて、彼女の内に信仰と希望がわいてきました。
「この方には癒す力がある!」。その確信が「イエス様の着物をさわれば癒される」というほどの信仰と行動になったのです。
聞いて、信じて、行動する。 12年間の重荷から解放された瞬間です。実に信仰は聞くことから始まるのです。